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小出家の歩み

いよいよ完結編更新しました。
小出農場の歩みはあくまでも私的に歴史に他なりません。
しかし、ひとつの家族が先祖から命をいただき、そして今もその意思を繋ぎ生き続ける姿は現代に忘れられようとしている何かを思い起こしてくれます。お読みいただいた方々から様々なご感想を頂きました。ありがとうございました。このページは1999年2月ホームページを公開する以前1991年8月に我が父「小出英二郎」が当時70歳を記念に書きつづけた自分史「椎ノ木カ樫ノ木」を原稿として次男の賢明が書きつづけました。
 
途中で個人的な感想も多くなってしまいましたが、1994年4月30日突然の交通事故により父を亡くし、何かせづにはいられない一心で書きつづけたためです。ご了承いただければ幸いです。
新しさのなかに古さ、古さの中に新しさを持った父「英二郎」が残したこの集大成が私達家族そして、親族に言わんとしたことを噛み締め今後の小出家を継承してまいりたいと考えています。
祖先の歴史に心から感謝を込めて小出家の歩みを終了します。 ありがとうございました。

第一章 由来

百姓から近代農業に改革した私の父
小出英二郎
1918,11,30~1995,4,30
源平時代樽本の地に、落武者が逃れてきたのが、始まりらしい。
樽本は現在の信越線関山駅から歩いて、10時間もかかり、
その地の裏は、長野県であることからすれば、
想像もできない山奥であることがわかる。
三紀層地帯の赤地土が肥え焼畑でも充分作物ができることから、定着したらしい。
昔からの言い伝えであるが、戦国時代の国墳は正に山や川など、
自然環境がそのまま防衛線になっていることから、
真冬7~10mもの雪が国境を決めたのだろう。
私の家の過去帳によると、1630年ごろ豊臣時代に発っするらしい。

第二章 小出姓発祥

小出家紋章 「額紋」
一族は秀吉と同郷、尾張中村の生まれのお陰で取り立てられ、
京都・丹波の国園部城主となった。
大阪城の中に大名の紋章に「額紋」が掲載されている。
大阪陣には徳川勢につき生き残り、11代を過て明治維新を迎えたらしい。
樽本の地に観見堂という、小出家の守り神があり、
その庭に集まる。
その一族は今全国で生き抜いている。
※樽本出身の会「ままよ会」
ままよ会は旧豊芦村の伝統的な「ままよ踊り」を継承する親睦団体です。

第三章 樽本の歴史(新潟県中頚城郡妙高村樽本)

大昔も今も道と川や港を中心に街がさかえます。
樽本も信州への山越の道から栄えたらしい。
現在の上越市・高田春日山方面から関川・土路川添えに歩き樽本・沼村(現在の斑尾高原)経て信州は古間村・荒瀬・豊野を通って千曲川に添って長野・関東へ出たらしい。
江戸時代後期までは沼村にも80戸もの集落がありその奥の萩原村には100戸もの家々があった。
小出家は代々「喜左ェ門」の称号(屋号)があり、
総本家(現在 埼玉県川口市在住)は高田城主松平藩に奉納米指定調達先として可愛がられたという言い伝えがある。

第四章 昔の暮らし -その1- 明治から大正時代

大正初期に建てた上樽青年倶楽部
冬の姿
さらに好奇心も極めて強かったらしい。
今で言う中堅リーダーと言っても良いかもしれない。
時代の流行りものはいち早く導入し、子孫達もどんどん町を目指し出かけたようだ。
電気が村にくれば、動力を農作業に利用し、ラジオもいち早く購入し情報収集をした。
しかし、現実は現金収入は米以外はなく全国の百姓同様貧乏極まりない時代だったらしい。
父から聞いた話だが・・・・
どこの家でも子供が6-7人おり、主食は粟・薯・南瓜・大根などを入れた「おじや」で白米食は正月とお盆だけだった。
寝室などは「スベ」藁を空いた柔らかな部分を袋に詰めたもので、ノミ・シラミと同居状態であった。
実体験はもっとすさまじい状況のようだが、周りは全てが同じであり今の時代のような人間関係はなくのびのびとした生活感も多かったようだ。

第五章 昔の暮らし -その2- 大正から昭和時代

袴岳より妙高山を望む 樽本から田口へ木炭を運ぶ丸山与作さん
日本全土が貧乏であつた。
この村も現金収入がなく自給自足の経済状況はまつたく変わらない時代だった。
そんな中木炭の生産(炭焼き)に次いで養蚕(かいこ)は多少の現金収入となり、当時ブラジル移民などの大胆な食うがための発想は陰をひそめていった。
しかし、豪雪地帯のこの地にとって冬の東京圏への出稼ぎは欠くことのできない実態だった。
給料は1ヶ月3円そこそこ、春に帰るとき給金は10円程度、電車賃を1円90銭使いなんだかんだの経費を引けば5円を親に渡すのが精一杯であった。
この時代を語ると食うがための想いのみが残る、たった4-50年の過去にしてはスサマジイ記憶です。
しかし、そんな中で楽しいことも沢山ありました。
時折遠方から「ゴゼ」が三味線を弾き村の人々全員で酒盛り、夜を明かし歌った。
正月・お盆も近隣で「オヨリ組み」と称し仲間をつくり世間話に花を咲かせ、踊り・歌い老若男女心をヒトツにしてふざけあつたことも今の時代にはない楽しい想いでる。

第六章 この頃の農業経営

樽本の名物「山桜と滝」  ”人家絶えても山河あり"
まさに無農薬有機栽培時代といっていい、
馬・牛・やぎ・鶏などの家畜を元とした自給肥料を中心に
高田早稲という 品種で今の収穫量からすれば半分程度であった。
第5章でも書いた通りほとんどが小作農家であったことから刈入れご手に入る米はわずか一反当り1俵(60キロ)も あれば上々であった。
ある年新品種「農林1号」が発表され、村に専門技師を招き説明会を開いた。
この年から米 の出来高は一変した。
中頚城郡農業振興会 金子政治技師には村の功労者として心から感謝している。
このことから、単に米の生産量のみならず農業から生活向上のための助言を青年達に伝授され将来に対して夢や目標が持てたことは大変な財産となっている。
昭和5年の年から開墾・作付けを大幅に拡大し借金返済をしつつ昭和8年25俵の米を出荷したことは今でも忘れることが出来ない。
生活が貧しいのが貧困ではなく、
将来に夢や希望がないのが本当の貧困なのかもしれない。

第七章 近代農業への布石

昭和28年始めて導入した耕運機  ”クインテトラー"
我慢と苦悩の連続でした
昭和10年頃から世界は戦いの時代へ突入し、こんな山奥のむらも例外無く若者は戦争に組み込まれていきました。
この時代はここでの掲載をいたしませんが、語り尽くせない経験をしました。
ただヒトツ「死んだつもりでやれば何でもできる」と言いますが正にその通りの体験をしてきたことは事実です。
この経験が近代農業への脱皮につながったことは紛れもない事実となりました。
昭和14年5月入隊し昭和21年7月復員してからは奪われた青春を謳歌するように何をしてもすばらしかった。
新しくできた青年会活動で若人を結集して将来を語り集会所も自分たちで建設した。
さらに、他の地域の若人とも積極的に交流し大運動会も開催した。
そして、ついに念願の結婚をすることとなった。
戦争に出かけるときは小学5年生だった「トシノ」が私の妻となり、新しい時代は始まりました。
この年占領軍より農地開放指令が出て小作人は自分の田畑を持ち、将来に明るい日差しが漂ってきた。
さらに、山肌の小さな田畑100枚以上を5年間でまとめ作業効率を上げることもできた。もちろんブルトーザーが有る時代ではない、スコップと鍬そして馬・牛の力で完成した。
現金収入などは相変わらず無く、県の指導も手伝い「馬鈴薯」の副作そしてオムツの油紙からヒントを得て「保温苗代:稲の苗を育てるための簡易シート」、そしていよいよ昭和27年村で始めての耕運機を導入することとなる。
仲間からは良く言われた「3頭も牛がいるのに機械を買うなんて大馬鹿者だ」と・・・・・
夢は大きいでもまだ現代を予想している人は誰もいない。

第八章 近代農業と社会活動

立候補街頭風景
葉タバコの生産風景
汗は結果を出して行き、次第に生活も変わっていった。
益々農業の近代化が進み馬鈴薯の生産も輸入食料からのいもち病で次第に衰退し、
葉タバコの栽培が始まった丁度稲作の忙しさをぬって作付け乾燥出荷ができるため村全域に普及し現金収入の少ない家々にとっては大変な成果を上げこの時分からテレビが村に入り始めた。
この間、養鶏・小鳥(カナリヤ)・ねこむしろ(藁で編んだ敷物)・山菜・養蚕・錦鯉等お金になることはなんでもした。
これらのきっかけは昭和23年農業共同組合法の制定で初代の理事に選任され、昭和25年始めて農業委員を
若くして引き受けた結果色々な人々とであった結果から得た情報が縁であった。
昭和30年四ケ村(関山・原通・大鹿・豊葦村)の合併し妙高村が出来上がった。
いよいよ社会活動と農家の両立時代が始る。

第九章 社会活動から環境改革

防火用水が完成
村内初のコンクリート橋
村々を守り続けたお寺
幕が開けた両立時代は予想をはるかに超えた成果と問題を発見した。
当時40代の村会議員は余りにも若輩でありその若さは時には凄まじい行動力を発揮するが
先輩の方々には実に目の上のタンコブであったらしい、いつの世も同じである。
当時の樽本部落には、車両が入る道などは一本も無く差し当たり土木事業から活動は始まった。
昭和33年の台風による豪雨で唯一の橋は流された。実は後日談だが土台が崩れかなりの破損を受けていた、たまたま視察にこられていた役人に聞いたところ全損でなければ・・・
との事だったので若い衆全員で真夜中に全損させたのだった・・・?
今となればこの発想と行動力が時代を代表する出来事のような気がする。
この後、政治力に全力投球し土木予算を確保し設計書もなく道を作った事もあった。
村に始めて四輪自動車が入った事は今でも忘れられない。
子供たちが排気ガスの匂いを嗅ぐため学校帰り暗くなるまでトラックを待っていた事も多々あった。
このころ色々なことが村に入った。
僻地教育予算から学校給食、しかし現金がない父兄は給食費の変わりに野菜や味噌・醤油などを現物を持っていったり、蛍光灯が家々に入るや否やあまりの明るさに夫婦が恥ずかしげに生活したり、海の魚が運ばれてくると、米と交換の凄まじい掛相があったり、アイスキャンデーやアンパンが入るとその都度始めての食味に感動したことなど・・・・
現代の生活からは想像のできないことを村民全員で集団感動をした。
ここで忘れたくないことがあります。
今の世を継続していただいた、先祖の方々への感謝です。
まさに大切なものは感謝の心です。こんな気持ちを込めて右写真はその先祖を今でも供養しているお寺です。
いよいよ農業の本格時代がやってきます。

第十章 夢の実現-その1-

完成した夢の家
原点の家 
農業新時代がやってきていました。
昭和45年11月先祖の土地と山林を譲り、貢献者20歳の「英敏」を夢の柱とし家族5人で現在の関山への進展を実施した。
時代は高度成長期と重なり頸南地区(現在の上越市・新井市・板倉・妙高)も低賃金労働力を求め、工場進出ラッシュとなり農業貢献者は会社勤務に切り替わつていって時代だった。
いわゆるサンチャン農業の始まりの時代です。
1-2年は耕地も少なく家族全員で日雇いに出たり、近くの温泉場にアルバイトをしたりとにかくその年を生き抜くための資金作りに懸命だった。
近くの方から土地の引き合いがありすぐさま政府の農業用地取得資金を借り購入したことが転機となり、少しづつではあるが用地は増えていった。
しかしその用地も腰まで埋まるような近代農業を営むには遠い荒地ばかり、そこで山の開墾をしてきた経験を生かし、自力で区画整理をし暗渠排水等を積極的に実施し亀のようにゆっくりゆっくりではあるが良くなっていった。
こんな想い出があります。
農作業をしているとそうじゃまではないはずなのに「その車は邪魔!移動しろ。」
次ぎの日には「コノ橋渡ルベカラズ」とある。
一休さんじゃあるまいし、腹も立ったが私たちはよそ者と自覚し、夕方酒2本を片手に持ち主にお詫びに行った。
しかし又断られ、私がコンクリートの橋を掛けますと言うと、馬鹿にされた、その足で昔議員時代にお世話になった村役場の課長に事情を話したところすぐさま予算化し橋は出来上がった。
小出という奴は誰なんだと言われ始めたのはこのころからであった。
明日の夢・希望・目標を実現するために先祖の大切な土地を手放しこの地に来た私たちにとって泣いたり、非難・批判・不平を言っている余裕なんぞ無く、ただただもくもくと毎日の仕事を夢の実現に向かってやるのみの時代でした。

第十一章 夢の実現 -その2-

始めて購入した作業用トラック
最大の貢献機械 トラクター この機械で近代化が極めて進んだ
試練が待ち受けていました。
昭和49年11月縁あって隣町から待望の19歳のお嫁さんがやってまいりました。
若い夫婦は張り切って夢の実現に向け近代農業にがんばった翌昭和52年8月待望の初孫誕生が正か最悪の事態を迎えようとは誰も予想をしませんでした。
我が子に一辺も乳をあげづままその年の暮れ12月28日他界していきました。
51年10月我が家の基礎を作った父も88歳でこの世を去り、更に骨折・交通事故など何がここまで不幸が続くのか神・仏すら恨もうと思いたくもなる事態が起こりました。
しかし、「人生には必ず山と谷があり、諦めず頑張れば必ずいいことがある」
と信じ長野に一旦は就職した末娘を呼び寄せ、家族一丸となって働き続けた。
昭和57年小出家にいよいよ夜明けが来た。
ご縁があり心から待ちに待ったお嫁さんが決まった。
新潟日報社さんには心から感謝いたしております。
たったヒトツの情報から何物にも変えがたいご縁ができました。
今こうしてインターネットで小出家の歩みを伝えられるのも何かのご縁です。
時代はいよいよ成長しつつ都会と地方、会社勤めと農業が極端に差が出始め、
家庭も仕事にも何かを根本から改革しなければならなくなってきました。
朝から夜遅くまで馬車馬のごとく働き通す農業を変えなければ後継者どころか日本の農業がだめになってしまいます。
こんな時ある話がありました。

第十二章 新しい出発

突然我が家にタイムレコーダーがやってきました
農業改良普及所の指導もあり、当時の夜明けから日没まで田んぼで働き帰ってまた夜なべ仕事と生活は仕事漬け、それでも尚働き通す。
そんな生活では若い者の夢も崩すのは当たり前だった。
当時は地域周辺にも高度成長期の影響で企業の進出でサラリーマン家庭も増え若人の付き合いも勤め人時間に合わされ、我が家にもメリハリのある労働が必要になっていた。
ガチャンとタイムカードを押し田んぼへ出勤し、ガチャンと押し泥靴を脱ぎ家に上がる。
たったこの中古の機器一台で生活が変わった。
昭和58年いよいよ夢にまで見た作業所の建設を開始した。
近隣の先進農家の施設を数多く見学し設計した。そして刈り入れから乾燥精米まで一連ででき、腰痛やけがなどしないように配置もした。この年初めて1300俵を生産した。
合理化のお陰で病気も怪我もなく多額の借り入れ金以外は大成功の出発だ。
夏の余暇には出身地樽本に残してきた杉木を大切に育てたお陰でこの木も利用し、昭和63年家族一丸となって働き続けたお陰で住宅の改築を行った。
若い夫婦や孫たちの意見を充分配慮し将来の小出農場を夢見た設計で完成した。
さまざまな出来事が頭をよぎり、新居の第一日目の夜は眠れなかった。
昭和41年この地関山にたった四反歩の土地を求め出張作付けで始まった近代化
がようやく結果が出始め、形も見えてきた。
新しい出発の始まりだ。先祖に心から感謝をしたい。

第十三章 小出一族の踏ん張り

祖父母 小出 茂兵衛・松尾
小出ファミリー (昭和39年)
兄弟10人
男子は14歳になると次々に東京の学校へ送り出し、冬にはその息子達の家に行き沢山の都会情報を仕入て帰郷する。
その情報を孫にまで教る。
とても語り尽くせない祖父母でした。
一族は全国に根を張りつつ今も 茂兵衛・松尾 だましいを守り続けています。
2人のじいちゃんばあちゃんが10人の子を育てそこから26人の孫が産まれその孫が40人以上(数えきれない)のファミリーを育みました。
小出家はこの時代どこにでもある、どこにでもいる一族です。
しかし、もし少しだけ他の一族と違う点を捜すとするなら一族がヒトツの暗黙的な約束をしているということです。
それは 「ころんだら起きる」ということです。
そして貧しく苦しかった時代「樽本育ちを忘れない」ということです。
更に「家庭を第一にする」そして「踏ん張る」ということです。
数々の歴史の中で、先祖の踏ん張りが私達を生かして頂き今の父母が子供たちを育てる。
そしてその後ろ姿を見て育った子供たちが再び「踏ん張る小出になる」
時代は流れても子と親の関係や人と人との関係は何も変わりません。
小出家の歩みもそろそろ完結の章に近づいています。
次回は完結-其の1- をお送りします。
ご期待ください。

第十四章 小出一族の系図

この系図は小出農場の基盤を作った 亡き小出英二朗が70歳から3年をかけて調べて
作り上げたものです。
けっして名門ではない過去を必死に調べたのかを以前きいたことがあります。
「この世に生を受け、戦争で一度死んだ命をこうして生かさせていただく事へ感謝したい。
さらに、自分が生きていることは先祖万来から脈々と流れている一族の血にほかならない。
この事に感謝せずにおられようか。そしてこの経験を次ぎの世代に伝えることは私の責任である。」
今この系図をデジタル化しながら思い考えます。
日本全国の12000万人が皆このように過去のルーツに守られ継承し続けている。
たとえどんな立場の人でも今はその一瞬の時に他ならないことを・・・・・・・・・・・・・・・
いよいよ次回は完結編です。
個人的な事ですが、来月9月中旬に13章でも我が父の10人兄弟の末叔父の次女が結婚を迎えます。26人の従兄弟で25番目の寿となります。

長野で叔父・叔母に合い、完結編に向け謙虚になってまいります。ご期待下さい。

第十五章 ありがとう そして明日に・・・

自分史「椎ノ木カ樫ノ木」から
幼少の頃の貧困生活、青年期には生死をさまよい歩いた軍隊生活、国家のためにと死んだ戦友のことを想えば緊張緊張の毎日でした。
 
また、社会のことに、家族の為にといつしか七十の歳を越えた。
今日もあの為この為にと精を出している。
 
これも皆、今は亡き戦友の、社会の人々就中、家族の協力があってのことだ。樫の実芽を出した椎の木より大きく育てるのは次の代か。
 
自分史を綴りし夫の手伝いに
昔の話に胸をつまらせ
 
人生の荒波超えし大舟も
今や護りし農の道
 
幾年も住みしふるさと偲ぶれば
思いで深きことのかんずかず
小出トシノ 作
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