ファッションショーが須坂で始まった分

アーク都市塾ファッショントーク

【 ゆ と り と 遊 び 心 】2000.2.11「小池千枝 先生講演会より」

小池千枝先生プロフィール 涙坂市の出身で、現在文化服装学院名誉学院長小池干枝氏は、世界的なファッションデザイナー、高田賢三、コシノジュンコ、コシノヒロコ、ヤマモトヨージらを育て、「ファッション界のゴッドマザー」とも言われる。
また、「民族衣装はファションの原点である」という考えのもとに、世界各国の民俗人形約1800体(H13年7月現在)を収集し、須坂市に寄贈。
同市が平成9年9月に開舘した「小池干枝コレクション 世界の民俗人形簡物舘」の名誉舘長としても活躍中。

◇略歴

1916年 長野県涙坂市生まれ
1933年 漠坂高等女学校を卒業後、上京。文化裁縫女学院(現文化服装学院)本科に入学、翌年研究科に進む。

1951年 デザイン科を新設し、初代デザイン科長となる。
1955年 1年半ぶりに帰国。パリで学んだ「立体裁断」の普及のため、ボディーの開発に着手。
1976年 文化服装学院副学院長に就任。
1991年 文化服装学院名誉学院長に就任。
1997年 長野県涙坂市が同市に「小池千枝コレクション 世界の民俗人形博物舘」を開舘、名誉舘長に就任

 私の学生時代、長野は教育県といわれたが今は最下位に近いレベルだ。スポーツも強かった。長野商業が六十八年ぶりに甲子園に出場するというニユースを聞き、私が小さいころ、松商学園や長野商業がよく出場したことを思い出し元気が出た。
ファッションは衣食住などライフスタイル全般に関わっている。ラテン語にも同様の言葉があり紀元前から人間の最大の関心事だった。英国の文蜃シェークスピアはファッションについて「人間がファツョンに関心を持ち、さまざまな服を着るのは今の自分白身とは違う人格が欲しいからだ』と説いている。確かにピンクの服を着ると気分が華やぎ、赤を着ると元気になる。今赤い服を着ている私は大変元気な状態にある。

 一生一つの色の服しか着ないという人もいるが流行は十年単位でくり返すから十年に一回は流行に合うことになる。イブ・サン ローランのデザインした服はどんな人をも立派に見せる。パットが入ることにより着た入の姿勢を正しくし格調を出すからだ。彼は私がパリへ留学した時のクラスメート当時、彼が十九威で私が三十九歳。イラストがうまくシャープな神経を持っていた。最近パリへ待った時、高岡賢三とサン打−ランを街へ連れ出そうとしたができなかった。披は社長とか経常的なことに縛られ、ステータスをクリエー卜するデザイナーとして自由に外を歩けなくなっていた。彼は六十を過ぎたが、これからは自由な時間を持ち、やりたことに専念すると語ってくれた。

 第二次世界大戦で日本は多数の犠牲者を出して自由を得た。沖縄県の前知事はその戦争で亡くなった日本人兵士や民間人、米国人兵十らの名前を御影石に彫った。沖縄でそれを見た私はこれほどたくさんの人たちが犠牲になったのかと驚き、玉砕した人の中には私の教え子も三人おり、わずか一銭五厘の召集令状で人命が失われていった。当時、須坂から長岡が焼けるのを見た。広島や尾崎でも一発の原爆で何十万人もの人たちが死んでいる。世界中で日本だけが原爆を経験している。二十世紀で大切なことについて米国は原爆投下をあげている。しかし、その被害を受けた日本は原爆について触れていない。広島で原爆を受けた教え子は、体にやけどが残り同じように傷を受付た人たちが原爆症で皆亡くなっていったので私に『先生、私は結婚できないからデザイナーを目指す。よろしくね』とあいさつした。二度と戦争をくり返したくないから私は講演するたぴにこうしたことを話す。広烏や長崎で亡くなった人たちのことを今のほとんどの学生たちが知らないのはこの戦争が何だったのかという本当の歴史を教えていないからだ。

 二十一世紀は環境問題が重要。植物が二酸化傑素を酸素に変えてくれるのだと高校の生物の先生が話してくれた時、私は植物学者になろうと思ったほど植物をいとおしいと思った。きれいな水と空気、緑は信州の誇るベきもの。昔は空ももっと青かった。環境は百年前まで戻すべきで、長野が生き延びるためには環境を大切にし緑を守っていくしかない。明日からみんなで木を一本ずつ植えようではないか。こうした運動に対する女性の力は

とても重要で有効。父は一文無しから独立した人。現金を持って飯山で一年分の仕入れをし、古い水車小屋でそばやもみの製粉をして生計をたてた。その父の口癖は「親のすねはかじってもいいから人様にだけは迷惑をかけるな』。私は『自分で新しい道を拓くから高校だけは出してほしい』と頼んだ。

 母はおしゃれでモダンな人だった。三越で母にセ−ラースーツを買ってもらい喜んだ。そんな私を見て母は『お金を出し物を買って楽しむ新しい時代が来た。これからは洋服の時代だよ』と話してくれた。こうして私はファッションめ世界へ飛び込んでいった。

 私は六十歳のころ分からなかったことが七十歳になって分かり、七十歳で分からなかったことが八十歳で分かってきた。人情の機微やものの道理などか年齢とともに分かってきた。そういう意味で年を重ねることを私はうれしく有意義に思う。